Button 0Button 1Button 2Button 3Button 4Button 5Button 6Button 7

クリヤ・ヨガ

クリヤ・ヨガの科学



クリヤ・ヨガは,人間の血液中の炭酸ガスを除去して酸素を補給する、

簡単な心理生理学的技法である。

この技法によって,体内に吸収された余分の酸素原子は生命エネルギーに変換され,

脳や脊髄の中枢に活力を与える。

ヨギはこうして静脈血の蓄積を止めることによって、

体内細胞の老廃を減少したり阻止したりすることができるが,

さらに熟練すれば,肉体細胞を完全にエネルギーに変えることもできるようになる。

エリヤや,イエスや,カピール等の予言者たちは,

当時,クリヤまたはこれに似た技法を用いた大師たちで,

彼らはこの技法によって,

自己の肉体を意のままに物質化したり非物質化したりすることができたのである。

クリヤは古代伝来の科学である。ラヒリ・マハサヤはこれを、彼の偉大な師ババジから授けられた。

ババジは,人類が長い間の暗黒時代に見失ってしまったこの技法を再発見し、

その精髄を明らかにされた。

そして、あらためてこれを、単にクリヤ・ヨガと名付けられたのである。

ババジはラヒリ・マハサヤに言われた。

「この19世紀の世に、わたしがお前を通じて世界の人々に贈ろうとしているこのクリヤ・ヨガは、

何千年も昔、クリシュナがアルジュナに授け、

後に、パタンジャリ、キリスト、ヨハネ、パウロ、

およびそのほかの弟子たちにも知られるようになったものと同一の科学である」と。

------中略 ------

「クリヤ・ヨガは、人間の進化を促進するための手段である」

スリ・ユクテスワは弟子たちに説明された。

「いにしえのヨギたちは、宇宙意識の秘密が、呼吸の制御と密接な関係にあることを発見した。

これは、インドが人類の知識のうえにもたらした不滅の貢献である。

ヨ ギ( ヨガ行者 ) は、呼吸を不必要にする独特の技法によって、

ふだん心臓の鼓動を維持するために消費されている生命力を心臓から解放し、

この解放された生命力を、霊的進化の促進というより高い目的のために利用するのである。」

クリヤ・ヨギは、意志を用いて自己の生命エネルギーを、

脊髄の六つの中枢 ( 延髄、頸椎、腰椎、仙骨、尾骨の一にある神経壕 ) に沿って上下に循環させる。

これら六つの中枢は、象徴的宇宙人間である黄道帯の十二宮に相当する。

この鋭敏な脊髄の周囲に、わずか30秒間エネルギーを循環させるだけでも、

人間の魂は微妙な進化を遂げる。

30秒のクリヤがもたらす霊的進化は、

自然のままに生活する場合の一年分の霊的進化に匹敵するのである。

人間の肉体は、全知の霊眼という太陽のまわりを回転する、

六つ内的星座 ( 極の数にして十二 ) によって構成されており、

それらは、物質界の太陽および黄道帯の十二宮と相互に関連している。

こうして、人間はみな、内的宇宙と外的宇宙の影響を受けているのである。

いにしえの聖賢たちは、人間がこうした地上と天上の環境に支配されながら、

十二年を周期とする自然進化の道を歩まされていることを発見した。

聖典は、人間が脳を完全に発達させて宇宙意識に到達するには、

正常で健康な生活を続けたとしても百万年かかると断言している。

もしクリヤを、一日に八時間半で千回行ったとすると、

このような一日は、自然進化の一千年に相当する効果をヨギにもたらす。

すなわち、これを一年間続けると、365,000年に相当する進化が遂げられることになる。

こうしてクリヤ・ヨギは、自然が百万年かかってもたらす効果を、

賢明な自己訓練の努力によって、わずか三年で達成することができるのである。

しかし、このような著しい進化の近道は、

もちろん、熟達したヨギのみが取りうることであって、

それは聖師の指導の元で、

強烈な行から生ずる力に十分耐えられるだけの肉体と脳を注意深く訓練して、

はじめて可能となるのである。

後略 ------

森北出版株式会社

「あるヨギの自叙伝」 パラマハンサ・ヨガナンダ著

〜 第二十六章 「クリヤ・ヨガの科学」より抜粋 〜



クリヤ・ヨガ その1



サンスクリットの用語を使うと、

クリヤ・ヨガは、タパス、スヴァディアーヤ、イーシュヴァラ・・プラニダートよりなる。

「タパス」という言葉は「苦行」とか「禁欲」と訳されるのでよく誤解されるが、

実際はここでは別のものを意味している。

「タパス」とは、「焼くこと」、或いは「熱をつくり出すこと」である。

焼くとどんなものでも純化される。

例えば金は、焼けば焼くほど純度が増す。

それは火中に投じられる度に、不純物が取り除かれていく。

だか、この燃焼のプロセスは、心の不純物に対してはどのように働くのだろう。?

それは、楽に向かって流れるのが心の常であるが、

逆に、我々の元に来る苦痛の全てを受け入れることによって働くのである。

実のところ、もし我々が苦痛の浄化作用を知っているならば、

我々はそれを受け入れることを幸いとする。

そういう受容は、我々の心を堅固にする。

それは、他者に苦しみを与えるのは容易いが、

投げ返さずにそれを受け止めるのは難しいことだからだ。

このような自己錬磨は明らかに、自分の瞑想室で行われるものではなく、

他者との関わり合う日常生活の中でしか行われ得ない。

タパスは、自己を統御することでもある。

通常、心というものは、馬車に繋がれた野生の馬のようなものである。

身体を馬車と見なそう。

知性は御者である。

手は手綱であり、馬は諸感覚である。

「自己」すなわち真のあなたは、乗客である。

そこでもし馬を、手綱も御者もなしに走るに任せておくならば、乗客の旅はおぼつかない。

だから感覚と感覚器官の統御は、初めしばしば苦痛をもたらすかのように感じられるが、

結局は楽に終わるのだ。

タパスがこのような観点から理解されるならば、我々は苦痛を待ち望むようになるだろう。

それを引き起こした人々に対して、我々の心を堅固にし、不純物を焼く機会を与えてくれたとして、

感謝しさえするだろう。



クリヤ・ヨガ その2 心の死滅



聖師パタンジャリが記したといわれる「ヨーガ・スートラ」を紐解いてみよう。

YOGAS CHITTA VRITTI NIRODHAH.

心の作用を止滅させることが、ヨーガである。

「チッタ」というのは心の総体である。

このパタンジャリが言うところの心の全貌をつかむには、

チッタがさまざまなレベルを内包するものだということを知っておかねばならない。

心の基体は「アハンカーラ」( 我慢 ) と呼ばれ、それは私という感じのことだ。

これが「ブッディ」( 覚 ) と呼ばれる知性、つまり識別能力を発生させる。

もう一つのレベルは「マナス」( 意 ) と呼ばれ、これは心の中の欲望する部分で、

これがいろいろな感覚を通じて外界の事物に引き寄せられる。

例えば、あなたが一人静かに座り、それを楽しんでいたとする。

すると台所の方からいい匂いがして来た。

その瞬間、マナスが「どこからかいい匂いがして来るな・・・」とキャッチし、

ブッディが「何の匂いだろう ? チーズみたいだな。こりゃいいや・・・。

どんなチーズだろう ? スイスかな ? そうだこれはスイスチーズだ」と識別する。

そして、いったんブッディが「そうだ、これは去年お前がスイスで味わったのと同じ、

素敵なスイスチーズだぞ」と断定すると、

アハンカーラが、「おぅ、そうか。では私はそれを食べなくちゃ」と言う。

これらの三つは一度に一つづつ起きるが、

それが余りにも速いので、ほとんど見分けることが出来ない。

これらの作用が、次にそのチーズを手に入れようという努力を引き起こす。

「〜したい」が生まれ、それが台所を覗いてチーズを食べることによってかなえられないと、

あなたの心は元の安らかな状態に戻らない。

欲望が生まれる、次にその欲望を満たそうとする努力が来る、

そしてそれを満たしてしまえばあなたはまた元の安らかな位置に戻る。

ということはつまり、普段はあなたは安らかな状態にあるということだ。

それが心の自然な状態だ。

ところがこの「チッタ・ヴリッティ」すなわち「心の作用」がその平安を乱す。

これらの心の作用輪完全に死滅させることがヨガである。

ヨガは通常「神との合一」とも訳される。

神とは、心のない純粋意識のことである。

人間だけが、欲望 ( マナス ) を持ち心 ( チッタ ) を持つ。

これらの作用を死滅させることが悟りの本質であり、ヨガそのものであると言えよう。

クリヤ・ヨガのプラーナヤマ ( 呼吸法 ) はこのような心の死滅のための有効な手段である。



クリヤ・ヨガ その3 心の作用



外界に見る差異の全ては、心の作用の所産である。

例えば、あなたは生まれてから一度も父親に会ったことがなく、

あなたが十歳の時、その父親が帰って来たとしよう。

彼がドアをノックする。

あなたがドアを開けると、そこに見るのはあなたの知らない顔だ。

あなたは母親のところへ走って行って、「お母さん、誰か知らない人が来ているよ」と言う。

彼女が出て来てみると、そこには長い間家を空けていた夫がいる。

彼女は大喜びで夫を迎え、「この人はあなたのお父さんよ」とあなたに紹介する。

あなたは「ああ、お父さん !!」と言う。

ついさっきまで彼は見知らぬ人だった、それが今やあなたのお父さんになった。

彼はお父さんに変わったのか ?。

いや、彼は同一人物だ。

あなたが先ず、「見知らぬ人」といあ想念を作り上げ、

次にそれを、「お父さん」に変えた、それだけのことである。

外界の全てが、あなたの思考 ( 想念 ) と心理的態度に基づいている。

世界は全て、あなた自身の投影物だ。

あなたの評価は瞬く間に変わる。

昨日は「恋人」だった人が、今日は「見るのも嫌」かも知れない。

このことを忘れずにいるならば、あなたは外的な事象にそれほど重きを置かなくなるだろう。

ヨガが外界の変革についてあまりこだわらないのはそのためだ。

サンスクリットの格言に「人は心なり。束縛あるいは解脱は汝自身の心中にあり」

( Mana eca manushyanam karanam bhandha mokshayoho) というのがある。

もし、あなたが束縛されていると感じるならばあなたは束縛差連れている。

もし、あなたが解放されていると感じるならば、あなたは解放されている。

外界の事物はあなたを束縛しもしないし、解放しもしない。

それは、あなたがそれらに向ける態度一つにかかっている。



クリヤ・ヨガ その4 心の歪み



あなたはまぎれもない、かの「見る者」である。

あなたは身体でもなく、心でもない。

あなたは「知る者」、すなわち「見る者」である。

あなたはいつも、自分の心と身体が眼前で行為しているのを見る。

あなたは、心が。思考を、識別を、そして欲望を生み出すことを知っている。

見る者はそれを知っているが、それに巻き込まれることがない。

だが、そういう不変の、平安に満ちた「あなた」を理解するためには、

心が穏やかでなければならない。

でないとどうもその心が、真実をゆがめてしまうようなのだ。

これについては類推による解釈が分かりやすいだろう。

あなたは自分自身を見たいと思っている者だ。

しかし、どういう風に見るのか。

そう、例えば物としての自分の顔でも、

「あなたは今までに一度でも自分の顔を見たことがありますか?」と聞かれたら、

「ない」と答えねばなるまい。

何故なら見るのが顔なのだから。

顔そのものが見る者、つまり主体なのだ。

それ ( 顔 ) が鏡の中に見ているものは、それの映像、つまり見られるもので、それは客体である。

そこで、もしその鏡が波打っていたり表面がデコボコだったりしたら、

本当の顔を見ることが出来るだろうか。

それは酷い顔、馬鹿でかかったり、

間伸びしていたり、グニャグニャだったりするだろう。

それをあなたは気に病むだろうか。

いや、おかしいのは鏡の方だということぐらい、すぐに分かる。

そこに見えているのは、歪んだ映像なのだ。

鏡を、まっすぐに平らにしさえすれば、それは本当の姿を映し出す。

そのとき初めてあなたは、自分の顔をありのままに見ることが出来る。

それと同じで、「見る者」つまり真のあなたは、あなたの鏡である心に映る。

しかし、普通あなたは、真の「自分」を見ることが出来ない。

心に色がついているからだ。

例えばあなたは、自分の心が汚ければ「私は汚い」と言うし、

それが奇麗に磨かれていていれば「私は美しい」と言う。

それはつまり、人間は心に映った自分の像を自分とみなすということだ。

そこでもし心が、たくさん波立っている湖面のような状態だったら、

そこに映っている像も当然歪んでいるだろうし、

心という湖の水が濁っていたり色がついていたりすれば、

自分自身が濁っていたり、色が着いていたりするように見える。

だから我々は、本当の姿が見えるように、

その水をいつも済んだ、穏やかな、波のない状態にして丘なればならない。

心が思考形成を止める時、つまり「チッタ」が完全に作用を免れている時、

それは静かな湖のように澄んで、そこに本当の「自分」が映る。

このように例えると、「では見る者が自分自身を誤認するのか?」とか、

「見る者が自分自身を忘れてしまっているのか?」という疑問が出て来るかも知れない。

そういうことはない。

「見る者」が「自分自身」を誤解したり忘れ去ったりすることなど、あろうはずがない。

それは映り出た像のレベルでの話だ。

映り出た像が歪んでいるから、「見る者」自体が歪んでいるかのように見える、ということだ。

本当の自分はいつも同じだ。

だが、歪んでいるように見える、つまり心とゴッチャになって見える。

だから、心の汚れを落として奇麗にすると、「これで戻った」と感じる。

つまり、自分が現状を回復したかのように見える。



クリヤ・ヨガ その5 ヤマ 1



ヨガには八つの支分があるが、最初に来るのが「ヤマ」である。

「ヤマ( 禁戒 )」は非暴力( アヒンサー )、正直( サティア )、不盗( アスティヤ )、

禁欲( プラフマチャーリア )、不貪( アパリグラハ )、よりなる。

「アヒンサー」は、「苦痛をひき起こさないこと」である。

注釈家の中にはこれを「不殺生」と訳す人もいるが、そうではない。

「ヒンサー」は「苦痛をひき起こすこと」である。

従って、「アヒンサー」は「苦痛をひき起こさないこと」である。

苦痛をひき起こすことは殺すことよりも悪い場合がある。

また、言葉や思いによっても、苦痛はひき起こすことが出来る。

「サティア」は「正直」、嘘を言わないことである。

「アスティヤ」は、「盗まないこと」を意味する。

これらは大変初歩的なことのように見えるが、実は巨大なことである。

それらは、つまらないこととして軽視するべきではない。

それらを完全にすることは、並大抵ではない 。

「プラフマチャーリア」は、「禁欲」、或いは「独身生活」を守ることである。

そして、ヤマの最後には「アパリグラハ」が来る。

これには二通りの解釈の仕方がある。

一つは、「ものを貪らない、貪欲でない、

適切に使うことの出来る範囲を越えた蓄積をしないこと」である。

もう一つの解釈は、「贈与を受けないこと」である。

これらの五つの原則が「ヤマ」すなわち、「禁戒 」を構成している。

「アヒンサー」の戒行に徹すると、

その人は調和的なバイブレーションを放射するので、その人の側では全ての敵対が止む。

例えば、二人の人間が互いに敵意を持ち合っていても、

その人の側にいると彼らは一時的にそれを忘れる。

それが「アヒンサー」の功徳である。

それが、一定期間続けて、思いと言葉と行為 ( 意・口・身 ) において実行されると、

人格全体がそのバイブレーションを発するのである。

野生の動物でさえ「アヒンサー」に徹した者の側では、その残虐性を忘れる。

「アヒンサー」を守っている聖者や賢者たちの住む森の中では、

動物たちは空腹の時にしか獲物を殺さなかった。

それ以外の時は、牛と虎が仲良く並んで水を飲んでいた。

仏陀はそれを行い、高めた。

彼は赴くところどこにでも平和と調和と友愛をもたらした。

聖フランシスもその一つの偉大な例である。

マハートマー・ガンディーは、「アヒンサー」の実践と普及に全力を尽くし、

多くの人々を一つに結びつけた。

もちろん彼の試みの中には失敗もあったが、

「私は今も努力している、私はそれほど完全ではない。」と認めている。

彼の生涯は「アヒンサー」と「サティア」の誓いに基礎づけられていた。

それは完璧ではなかったが、彼は偉大な平和の使徒としての名声を全世界から獲ち得た。

  もしも彼の実践が完璧であったならば、

暗殺者は彼の前に姿を現した時、彼を撃とうという気持ちを失っていたかも知れない。

だがそのように、それを少し達成しただけで、彼は世界中から称賛され尊敬されたのだ。

「アヒンサー」をほんの少し実行するだけでも、我々を高めるのに十分である。



クリヤ・ヨガ その6 ヤマ 2



正直の確立によって人々は。彼自身と他者のために、事を為さずしてことの成果に至る力を得る。

言い換えるなら、物事が自ずから彼の元へ来る。

自然は全て、正直な人間を愛する。

正直な人間は物事の後を追う必要がない、何故ならそれらの方が彼の後を追うからだ。

そして、ある人が常に正直であるならば、

つまりその口から一言の嘘も発されないならば、彼の言うことは全て現実となる時が来る。

たとえ彼がふと口を滑らせた一言でも、それは現実となるだろう。

それは、「サティア」の実行によってその言葉が純粋で非常に強い力を持つようになるので、

正直が彼を遵守するからである。

それは常に彼と共にあることを望む。

呪詛の言葉が発せられるならば、それは起こる。

祝福の言葉が発せられるならば、それも起こる。

正直な生活を送れば送るほど、

我々はより多くの結果を見、それがまた我々を励まして、さらなる正直へと向かわせる。

正直が確立すると、恐れの無い状態がやって来る。

その人は誰も怖れる必要もなく、常に開かれた生活を送ることが出来る。

嘘のない時、その生活の全体が、開かれた書物となる。

しかしそれは、絶対的に正直な心を持って始めて可能なことである。

心が静かで澄んでいる時、真の「自己」が損なわれることなく映り出て、

我々は真理のありのままの姿で悟る。

絶対的な正直というのは、方便としての嘘も言わないということである。

正直であることによって問題が生じたり、

誰かに困難や不都合が生じるならば、我々は沈黙を守るべきである。

嘘をついて「私は知らない」と言うのではなく、はっきり、

「私は知っているが言いたくない」と言えば良い。

それは罪人をかばえという意味ではなく、

自分自身も嘘をつくべきではないが、他人にも嘘をつかせるべきではないからである。

それを意識的にやるならば自分自身も偽りの側にいることになるが。

事実、法律的に言っても、

刑罰は実際に手を下した人よりもその犯罪の影にいる人に対しての方が重いのが普通である。

だから先ず真実に従え、そうすれば真実があなたに従う。

それは、煙草を喫うのを覚えると「後から煙草が教えてくれる」のと同じである。

初めて煙草を喫った時に、美味しいと思った人はいないはずだ。

それは吸い込むのが大変だし、胸が悪くなってムカムカする。

それが段々、煙を全然外に漏らさずに吸い込むことが出来るようになる。

そしてついには煙草が我々を「喫い」始める。

最初はこちらが煙草を燃やしていく訳だが、

やがて向こうがこちらを「燃やし」始める、じわじわと我々の身体組織を浸食しながら。

ヨガは盲目的に信じて着いて行かなければならない哲学ではない。

始めるときは確かに何らかの信念や信頼を必要とすねが、

修練を続けていくと、一歩また一歩と進む度に、より大きな希望が開けて、増々確信を深めていく。

もし我々がただの一日でも真にヨガをする者であるならば、我々は変わり、

もっとそうでありたいと願うだろう。

それは他の習慣と同じで、「蔓延性」なのである。

だが初めの内はその効益の味を知るまでは、何らかの努力をしなければならない。

それはちょうど、子供が母親の差し出すちょっと変わったキャンディーを見て、

「いや、いらない !!」と言うのと同じである。

ところが母親は何かの拍子にひょいとその子の口の中にそれを押し込んでやると、

子供はその味を覚えて、それからはいくらでも欲しがるようになる。

だから、その味を覚えたら、たとえ世界中が我々の前に立ちはだかっても、

我々が目標に向かって進むのを阻むことは出来ないだろう。



クリヤ・ヨガ その6 ヤマ 2



もしも世界一の富豪になりたかったら,これは簡単な話である。

株の売り買いに頭を突っ込む必要もないし、働きに行く必要もない。

ただ不盗 ( アスティア ) を実行せよ。

我々は全て盗人である。

知っていながら、或いは知らないうちに,我々は自然から盗んでいる。

一瞬一瞬,一息ごとに、我々は自然からかすめ盗っている。

誰の空気を我々は吸っているのか ?

自然のである。

だからといって息をするのを止めて死ねと言っているのではない。

その代わり、一息一息を敬虔に受け取り、それを他者に奉仕するために使うのだ。

そうすれば我々は盗んでいるのではないことになる。

それを受け取っておきながら何も返さないならば、我々は盗人である。

我々は貪欲だから盗む。

我々は少しを行っておおくを得たい。

会社に行って,少しだけ椅子に座って、私的な約束をするために一日中電話を使う。

倉庫から会社の備品を無断で持ち出しておいて、月末にはちゃんと給料をもらう。

彼らはそのお金を盗んでいないか ?

或いは我々は、他人の考え方を盗んでいないか ?

もし我々が持てるものだけで満足し、

盗みや貪欲とは全く無縁で、静かな心を保ち続けているならば、全ての富が我々の元に来る。

もし我々がそれらの後を追わなかったら、やがてそれらが我々の後を追う。

我々が貪欲でないことを自然が知れば、

彼女は、我々が彼女を決して独り占めしようとしているのではないと知って,我々を信頼する。

ところが我々は大抵、何かを手に入れたらそれに鍵をかけて閉じ込め、

鍵を安全な場所に隠してしまう傾向がある。

我々は自分の持ち物を閉じ込める、お金でも財産でも人間でも。

例えばお金を閉じ込めようとすると、

そのお金は、

「どうして ? 私は自由に動きたいのに。だから私は丸く造られているのに,

どこへでも転がっていけるように。

なのに私はこんなところに閉じ込められてしまった。ああ悪い人のところへ来たものだ。

チャンスがあったらすぐに転がり出て逃げよう。」と思う。

物惜しみが強くて絶対に金庫を開けようとしない人もいる。

するとお金はその中でじっと耐えながら、「どうぞ誰か私を助けて・・・」とお祈りをする。

そのお祈りを聞き届けられないはずはなく、聞いた泥棒が救い出しに来る。

そうではなくて、もし我々が、

「来たいなら来なさい。出て行きたくなったら出て行きなさい」という態度でいれば、

どんなものでも、

「どうして私を追出そうとするんですか ? あなたの側に居させて下さい。私を追い払わないで。」

と言うだろう。

私自身そうである。

私は何も閉じ込めない。

ものはただ来て、とどまるだけだ。

私が出て行くように言っても,それらは私と居させてくれと言う。

こういうことは赤ん坊の様子を見ていると良く分かる。

赤ん坊が我々の側に来て、遊んで膝の上に乗る。

ところがそこから離れたくなったら、どんなに我々が引き止めようとしても嫌がる。

「どうして ? こんなところへ来るんじゃなかった。」

そして逃げていってしまう。

その後その赤ん坊をいくら呼び寄せようとしても、

「行きたくない。だってあの人は私を自分のところへ縛り付けとおこうとするだけだもの。」

と思う。

そうしないで、離れたくなったら離れさせておけば、彼は必ずまた戻って来る。

盗みのもう一つの形態に、ものを他人に使わせない、ということがある。

例えば、千坪の土地を持っていて、それをほとんど使っていないとする。

そこへ百坪買いたいという人が現れても、それをさせない。

それは、その有用性を奪っているのである。

もし、ある人のタンスの中に五十枚の衣服があって、その隣の人は一枚も持っていなかったら、

前者は後者の使用を奪っている。

ある種の人々が大量に物を買う力を持っているために、

あまりお金のない貧しい人々にとっては、それが価格をつり上げていることになる。

もし、誰もが自分に必要な物だけしか買わなかったら、商品が店に余って、価格は下がる。

世界中どこへ行っても、経済の基本はそれである。

アメリカでは小麦やジャガイモが何千トンも余って、それが海に捨てられているそうだ。

市場の「正常性」を保ち、価格を維持するために。

そんなことをせずに、それらは供給するべきだ。

すると価格が下がるから。

飢餓云々はさておいても・・・。

大地は全ての人のものである。

日本の片田舎に住む人も,オーストラリアに住む人も、

他の土地の人も、土地を持つ者として同格である。

アメリカで穫れた物は、

まずそこに住む人々に分配して、それが余ったら他の誰にでも分け与える・・・。

我々が他への思いやり、分かち合いを知っていれば、貧困や飢餓はどこにもなくて済むのである。

世界一豊かな国で、病院が資金不足のために閉鎖されていき、

その一方で巨額のお金がロケットや宇宙船や爆撃機のために使われているのを見るのは、

悲しいことだ。

宇宙ステーションを造ることの方が我々の隣人を助けることよりも大切なのだろうか ?

科学的な発明や進歩を否定しているのではない。

それらは素晴らしい。

誰でもが月へ行ける。

だがそれは、みんなが十分に食べることが出来、着る物があり、教育を受けることが出来てからだ。

インドの諺に「胃はパンを欲しがって泣き、髪は花飾りを欲しがって泣く」というのがある。

どちらがより大切だろう ?

髪は花飾りが無くても生きていけるが、胃は一山のパン無しではやっていけない。

先ず胃を満足させよう、そしてお金が余ったら、いくらでも花飾りを買えば良い。

そこに病み死んでいく人がいるのに、一握りの人間は月へ行くと言う。

我々はいつ付きへ行くべきか ?

地上を幸福にしてからである。

ここでいかに生きるべきかを知らない人々は、月へ行っても結局、同じ地獄を作るだけだろう。

政府は、何万何十万人の人々の幸福と健康を奪っている。

それは公然たる盗み、白昼の窃盗である。

何もかもが恐怖と自尊心と競争に基づいているのだ。

弾道弾迎撃ミサイルというのは、全く恐怖心の産物である。

それは、「私はあなたが怖くてたまらない。

だからこうやって爆弾やミサイルで武装しなきゃならないんだ。」と言っているようなもなののだ。

ところがその舌の根が乾かないうちに政府は、

「友達になりましょう、文化的な交流をしましょう。」と言う。

この二つがどうして両立するだろう ?

今、科学者たちは、地球を回っている人工衛星の全ての破片のリストを作っている。

どこかの国がそれをミサイルと間違えないように。

ちょっとした間違いで全世界が破滅しかねないのだ。

そして、人間というのは常に間違いを犯す。

核兵器を積んだ爆撃機がどれだけ飛び回っているか、ちょっと考えてみよう。

それらに何も起こらないという保証はあるだろうか ?

そうだ、現代のそういう発明品のために、我々は本当に恐ろしい状態の中で生きている。

馬の背や荷車に乗っていた祖先たちの方が、よほど幸せに思える。

食物は粗末だったろうし、テレビもインターネットも電化製品も超音速輸送機もなかったが、

精神的にはもっと幸せでもっと健康だった。

こういう不安はもうなくさなくてはいけない時だ。

こんな凄まじい緊張の中で我々はいつまでやっていけるだろう。

そういうことを考えると、豊かさは金銭的な富とは何の関係もないことが分かる。

最も富める者というのは、冷静沈着で、緊張や不安から自由な心を持つ人である。

そういう世界の状況を変化させることは、我々の手中にはない。

そういうものを全部止めさせようというのではない。

我々の手中にあるのは、まさに今ここで、喜びと平安を見出す力である。

もし我々が現在に生きるなら、たとえ地球が瞬時に吹き飛んでも構わないのだ。

我々は緊張の中にあっても幸福であることが出来る。

もし、我々が幸福であることが決定的事実であるならば、

我々を不幸にすることの出来る者は誰もいない。

どんなことでも起こるだろう。

世界的な地震が起きてたくさんの人が死ぬかも知れない。

しかし我々は未来を思い煩う必要はない。

そしてまた、過去を気に病む必要もない。

それはすんでしまったのだ。

今この瞬間に幸福であることが、我々の手中にある。

我々は世界を変えようとしているのではなく、

自分自身を変え、鳥のように自由だと感じることが出来るのだ。

我々は、災厄の最中にあっても冷静であることが出来、

その冷静によって他の人々を沈静化させることが出来る。

冷静は「感染」する。

こちらが微笑めば、相手も微笑み返す。

そして微笑みにはお金は要らない。

我々はあらゆる人々に喜びを感染させるべきである。

もしも今すぐに死ななければならないとしたら、どうして幸福に笑いながら死なないのか ?

しかしながら、何の思い煩いもない人生というのは、よく制御された、

不安から自由な、私的欲望や私的所有のない心によって初めて可能なのである。






Site logo

   
© 2007 アセンション研究所 All Right Reserved.

精神世界ランキング