★原子転換の話 ケルブラン博士の研究より( 2007/5/22 )★
「今日は生体における原子転換についての話をしましょう。」
「原子転換と言うと中世の錬金術師たちが試みていた水銀や鉛から金を作るような話ですか。」
「 それもありますが、今日は生体における原子転換の話です。」
「生体における原子転換というのは、食べ物の中のミネラルが食べたあと、
体の中で別のミネラルに変化するというような話ですか。」
「そうです。現代の常識では考えられないことですが、事実の話です。」
「現代科学ではいまだに解明できていないことが多いですからね。
しかし、常温常圧における原子転換は不可能という認識が一般的ではないですか。」
「その通りですが、ここに、フランスの生理学者ケルブラン博士の研究があります。
自然界と生物体内における原子転換の研究です。」
「その研究論文はあるのですか。」
「今から44〜5年前、フランスのパリでマクロビオテイックの創始者
桜沢如一が無双原理のゼミを開いていた時のことです。
そのゼミの内容は、
無限の中から有限の世界が創造され、
その有限の世界は様々に展開し、
たえず移り変わり、
変化し、
したがってこの有限世界には同一の空間も時間もないのだ
という東洋哲学の基本原理を説くものでした。
その会場の後ろのほうで話を聞いていた老夫婦がケルブラン夫婦でした。
その時ケルブラン博士が桜沢に話したのが原子転換の話だったのです。
その時の話によると、
ケルブラン博士は自分の研究があまりに今までの学説と違う結果を
示しているので発表を控えていたというのです。
なぜなら、
ヨーロッパにおいて新学説を発表したものは弾圧を受け、
地動説を唱えたガリレオなんかは火あぶりの刑にかかっているので、
そうなることを恐れていたのでした。
だから、ケルブラン博士もこの原子転換の研究論文は、
自分の死後数年後に発表するようにという遺書まで書いていたのです。
しかし、
桜沢の話を聞いて、
東洋哲学の素晴らしさと
自分の研究結果を素直に認めてくれそうな思想に触れて、
桜沢を通して論文発表をしようという決心をしたのでした。」
「その論文は発表されたのですか。」
「生体による原子転換(昭和37年12月桜沢如一訳)、
自然の中の原子転換(昭和38年7月桜沢如一訳)二冊とも日本CI協会刊として発表されました。
それらを見てみると、
いろいろな例示がありますが、
アフリカの赤道直下にあるガラス工場での調査研究をみてみましょう。
この熱帯の工場内というのは当然の事ながら、火を使ってやる仕事でもあるので大変な高温です。
そこで働いている工員たちはほとんど裸で作業をしているのですが、
博士はその工員たちの一日の食べ物、飲み物、大小便、汗にいたるまでの一切を調べてみたのです。
そうしたら、意外な結果が出たのです。
普通に考えると、
暑いときは体を冷やすもの、
つまり、
冷たい物やカリュウムの多い生野菜とか
果物を食べていると思いがちですが、
そうではなくて、
逆に塩分の多いものばかり食べていたのです。
つまり、彼らの食べ物にはナトリュウムが多いということがわかったのです。
ところが、大小便を調べたらその中にはカリュウムのほうが多かったのです。
そこで、食べたナトリュウムはどこへ消えたのか、
そんなに食べてもいないのに出てくるカリュウムはどうしたのだろう、
という疑問にぶつかったのです。」
「ナトリュウムを食べたのにカリュウムが出てきたというのですね。
それは不思議なことですね。
常温常圧においては
ナトリュウムやカリュウムなどの元素が
ほかの元素に転換することはないというのが現代の常識ですからね。」
「それでも、ケルブラン博士は長年の調査結果を詳細に検討していったところ、
食べたナトリュウムと出てきたナトリュウムの差が余分に出てくる
カリュウムの量とだいたい一致することから、
ナトリュウムが体内でカリュウムになったのだという結論を引き出したのです。」
「ナトリュウムがカリュウムに原子転換したというのですね。」
「そうです。また、ケルブラン博士は鶏卵のカルシュウムの研究もしています。
鶏の卵の殻はそのほとんどがカルシュウムです。
ですから
卵の殻の重さを計れば、
鶏が出すカルシュウムの量が分かります。
それで、鶏が食べている餌に含まれているカルシュウムの量も計っておけば、
カルシュウムはカルシュウムからしか出来ないのかどうかが分かるのです。
ところが、
カルシュウムを含んでいない餌をやっても、
ちゃんとカルシュウムの殻のついた卵を産むのです。
鶏の糞なども計算に入れて分析してみると、
体内に餌として取りいれたものと卵や糞尿として体外に出したものとでは、
カルシュウムをはじめとするミネラルの成分が違っていることが分かったのです。」
「これはやはり原子転換によってカルシュウムを作ったとしか考えようがありませんね。」
「また、
カニやエビについても生体内における原子転換を認めない限り説明のつかない問題があります。
特に脱皮する時のことを調べて見ると、今までの説では不可解です。
殻を脱いだカニを水槽の中に入れておくと
何も餌をやらなくてもカルシュウムで出来た硬い殻が出来ます。
このカルシュウムはどこから来たのでしょう。
水槽の海水の中のカルシュウム量も、
殻を脱いだカニがあらかじめ持っていたカルシュウム量も計っておけば、
明らかにカルシュウムが増えたことが分かり、
カルシュウムがカルシュウム以外のものから作られたとしか言いようがないでしょう。
それから、
サザエなどの貝類においてもあの貝殻はカルシュウムですが、
彼らの餌である藻はカルシュウムに富んでいるかというとそうではなくて、
マグネシュウムとカリュウムに富んでいるのです。
また、よもぎやつくしにおいても、カルシュウムの問題は説明がつきません。
つくしは特にカルシュウム分が多いのですが、
その土壌を調べて見るとそれほどのカルシュウムを含んでいないのです。」
「生体内や自然界では当然のように常温常圧で原子転換が行われていると言えそうですね。」
「もっと驚くことがあります。
今から40年ほど前、アメリカのテキサス州で金の卵を産むアヒルが出現しました。
おとぎ話のような事件ですが現実にあったのです。
それで大騒ぎになって、アメリカの原子力委員会の科学者まで出動して調査にあたりました。
その卵というのは、
表面は炭酸カルシュウムで普通の卵だったのですが、
その下に厚さ2ミリの純金の殻がついていたのです。
もちろん、
中身には黄身と白身があるちゃんとしたもので、
この卵を1ヶ月以上産み続けたのです。
科学者たちはその金がどこから来たのか、
農場中を最新の金属探知機で探し回りました。
しかし、農場のどこを探しても、金らしいものはありませんでした。」
「これらはどう考えても鶏の体内で金が新生されているとか、
カニや貝がカルシュウムを新生しているとしか考えられませんよね。
現代の科学ではその辺のところはコメントしていないようですが、
どのように考えたらいいのでしょうか。」
「創造ということを考えたらすべてが解決します。
生物 というのは 生きるための創造力を持っている物 ということです。
生命のあり方 というのは 創造を繰り返す ということです。
そのように考えると空無から有への創造が常に行われている状態が生命活動ということでしょう。」
「無から有の創造と言ってしまえばその通りでしょうが、
それは余りにも短絡的な言い方になりませんか。
もう少し理解しやすい説明をして下さい。」
「千島学説において、
無核赤血球から核を新生して白血球になる過程における、
核の新生
つまり
核の創造
のように、
鶏やカニの生体内における金やカルシュウムの創造がなされていると考えることは出来ませんか。」
「核の新生も、
金やカルシュウムの創造も事実であるだろうけれど、
ブラックボックスの中から突然出て来た結果だけの現実の前で、
深淵な生命活動への好奇心だけが高ぶって、
説明のつかない現象の不明さに不満がつのりますね。
ブラックボックスの中をチラッとでも覗いた気分になれるような解説は出来ないものでしょうか。」
「食べ物が血となり肉となる過程を例にとって解説してみましょう。
生命の基礎的な最小単位としてビールスの数万分の一程度の大きさの物を考えると
(私はこれを生理的極小微生物体の素という意味を込めて ジャーム生体素 と名付けている)
バクテリアはこのジャーム生体素の数千、
数万の寄り集まりであり、
血球や細胞はこのジャーム生体素やバクテリアが数億、
数兆と集まり、
融合した物です。
当然、
それらは、
個々の構成物を同化統制して、
それぞれ全体としての秩序と調和が維持されているのです。」
「そのジャーム生体素はどうやって出来るのですか。」
「それはその生物の存在しようという意志によって空無から創造されるのです。」
「空無から創造されるのですか。
そうなるともう科学的説明ではなくなりますね。」
「科学的説明でないから間違いである、
意味のない説明であるというのであれば話はここで終わりです。
しかし、
目の前で食物が腸壁を通過する段階で赤血球が出来、
赤血球の中にもともと存在しなかった核が新生されてくる様子を見せられると、
最新の電子顕微鏡でも見ることの出来ないジャーム生体素の存在やその働きを
科学的事実として認めても良さそうではありませんか。」
「物事の理解の仕方で、
事実を積み上げていって
その構造を
既存の明確に分かっている構造と相似象としてとらえる方法をも科学として採用すれば、
遙かに今より多くのことが科学的理解の範疇に入ってくるのですがね。
今のところそこまで行かないようです。
だから物の存在とか生命の本質などという事柄を科学すると言うこと事態が無理なことです。
ですから、
すべては
本質の
比喩的相似象的現れだ
という捉え方こそが
まさに物事の本質的認識法だとしなければこの世の実相はつかめないといえそうですね。」
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