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「ニセ科学」入門 ( 200/9/16 )




「ニセ科学」入門





はじめに



論文にしてはケッタイなタイトルなの で、面食らっておられるかたも多かろう。



現代市民社会の特に日常生活と科学とのか かわりを考えるとき、

私個人は「ニセ科学」の問題は極めて重要であると考えるのだ が、

恐らくはこの問題に注目していない研究者(自然科学者・科学論者・社会科学者 を問わず)がほとんどだろうし、

それどころか問題の存在にすら気づいていないかた がたも多いと思うので、

それでなくてもケッタイな「ニセ科学」という言葉に敢えて 「入門」という言葉をつけさせていただいた。





1.ニセ科学とは



世間には奇怪な情報が飛び交っている。



年末のテレビで「アポロは月に 行かなかった」

という説をキッシンジャー等ニクソン政権時の政治家へのインタビュ ーを通して実証するという外国の番組が紹介された。



実はエイプリルフール用に作ら れた冗談番組だったというのがオチなのだが、

オチの部分を聞かずに信じてしまった 視聴者も少なからずいたらしい。



「アポロは月に行かなかった」というのは陰謀論としてポピュラーなもので、

反証はいくつでも挙げられる。



オチを聞かなくても冗談だ とわかりそうなものだが、

信じたいことだけを信じる人間は常識から目をそむけてし まうものらしい。



これはいわゆる”陰謀論”である。



広い意味では「ニセ科学」かも しれないが、

本稿では対象としない。





一方、

「ニセ科学」という言葉で超 能力やオカルト、

心霊現象、

あるいは星占いのたぐいを思い起こす向きもあろう。



こ の中で超能力(テレパシーや予知、

念力など)については「超心理学」という学問分 野まで存在するので「ニセ科学」と呼べるだろうが、

オカルト・心霊などはそもそも 「科学的」な外観を持たないので、

ニセ科学とは呼ばない。



オカルト信者自身、

オカ ルトを「科学」とは考えていないだろう。





つまり、

ここでは「ニセ科学」 という言葉を”見かけは科学のようでも、

実は科学ではないもの”に限定して使うこ とにする。



「見かけ」という以上、

誰から見てのものかが重要だが、

ここでは科学の 専門家ではない人たちを念頭に置いている。



普通程度の科学的知識を持つ「一般市 民」

(こういう言葉がいいのか悪いのかはわからないが)には科学と区別がつかない が、

専門家から見れば荒唐無稽なものという程度の意味である。





そんなものを論じる価値があるのか。



それが大ありなのだ。



端的にはルイセンコ事件を思い出 せばよい。



そこには、

ニセ科学が一国の社会・経済・政治を揺るがす大事件になった 例を見ることができる。



イデオロギー的に都合がよいかどうかで学説の正否を決めて しまうなら、

それはまさに「ニセ科学」である。



残念ながらルイセンコ事件の教訓が 世間に行き渡っているとはいいがたく、

日本でもルイセンコ事件の縮小再生産のよう な事件は幾度となく起きている。



市民運動の側でそれが起きた身近な例が『買っては いけない』であろう(まだ終わっていないが)。





なお、同様の文脈ではむしろ「疑似科学」という言葉のほうが広く使われている。



敢えてその言葉を避けて 「ニセ科学」と呼ぶのは、文脈によっては「疑似科学」という言葉が褒め言葉になる からである。



具体的にはSF小説やファンタジー小説の批評などで”よくできた疑似科 学的説明”などという表現が使われる。



「疑似」という言葉には価値判断が含まれな いということであろう。



「ニセ」という言葉は否定的な意味合いを強く含むので、

こちらを採用する。



私自身、

「疑似科学」と呼んでいた時期もあるのだが、

上述の理由で違和感がつきまとうため、

最近は「ニセ」で統一している。



この用法はマイクル・ シャーマーの著書の邦題に倣ったものである。



「似非」「エセ」のほうをお好みのか たはそれでもかまわないだろう。



「トンデモ」という言葉を使う例も見かけるが、

特 にカタカナで書かれた「トンデモ」という言葉には「ニセ科学」とは少々違ったニュ アンスがこめられており、

ニュアンスを理解したうえでなければ使用をお勧めしな い。





本稿では最近の事例をいくつか取り上げて「ニセ科学」とはどういう ものであるかを考えてゆく。



具体的にはフリーエネルギー、

マイナスイオン、

波動、

ドーマン法などであるが、

その前に練習問題として血液型性格判断を議論しておこう。





2.練習問題:血液型性格判断



世界中で日本人ほど他人の血液型 を気にする国民はいないらしい。



飲み屋で血液型と性格の関連を話題にするのは日本 人くらいだろう。



血液型性格判断のニセ科学性については語り尽くされているといっていいのだが、

わかりやすい例なので、

簡単にまとめておく。





血液型性格 判断の歴史は古く、

1927年に古川竹二が出した学説まで遡る。



もっとも古川学説 は現在の血液型隆盛とは基本的に関係ない。



現在の血液型性格判断に直接つながるの は1971年に出版された能見正比古の著書である。



能見は学者ではなく、血液型に 関する学術論文を書いたわけでもなさそうだ。



その代わり、能見と息子の俊賢は血液 型に関する多くの一般書を出版している。





さて、

現在の位置づけを簡単に 述べよう。



心理学の問題としては解決済みで、

「血液型と性格が関連するという積極 的な証拠はない」ということでよいだろう。



つまり、

能見説にせよ古川説にせよ、

間違っていたわけである。



では、

古川学説は「ニセ科学」だったのか。



いや、

学説が出 された段階では「ニセ科学」ではなかったはずである。



それどころか、

「性格が遺伝 するなら、

同様に遺伝する血液型と関係するのではないか」という推測は、

むしろ目 のつけどころとしてはよかったといってもいいだろう。





問題は能見説以 降、

特に心理学の問題としては「関係があるとは言えない」という結論が出てしまっ たあとの”民間信仰”的ブームである。



能見は独自にデータを収集した上で結論を出 しているので、

科学的に研究しようとしたのだとは思う。



しかし、

実際には「科学」 として通用するものではなかった。



”血液型と性格は関連があるはずだ”という前提で議論を続けるのはニセ科学である。





では、

なぜ血液型性格判断は広く信じられているのだろうか。



以下に二つの要因を挙げておく。



いずれも仮説である。



(1)4分類という思い切った割り切り:2分類では恐らく誰も信じないし、

10分類 では多すぎておぼえる気になれない。



おぼえやすいことは重要で、

血液型性格判断が 学校から飲み屋まであらゆる状況で話題にされるのは、

手許に参考文献がなくても議 論できるからである。



4という数は適当にもっともらしく、

しかも使いやすいものな のだろう。



(2)血液型は遺伝現象の典型と認識されており、

メンデル型の遺伝法則に 従うことが一般常識として広く知れ渡っている。



また、

性格のかなりの部分が遺伝的 に決まっていると信じている人は多そうである。



いかにも遺伝しそうな「性格」が、

もっともよく知られた遺伝現象である「血液型」と関連すると主張されれば、

多くの 人がなるほどそれは「科学的」でもっともらしいと納得するのも不思議ではない。



こ の場合、

信じる側はあくまでも「科学」として信じるわけである。





さて、

血液型性格判断も単なる遊びのうちはたいした問題ではないが、

これが実害をもたらす可能性がある。



たとえば、

ある企業がインターネット上に公開している就職活動の ためのエントリーシートには、

氏名・住所・電話番号・電子メール・性別に続いて 「血液型」の記入が求められている。



ほかの項目は出身大学や帰省先、

職種の希望など常識的なものばかりであるから、

血液型の項目は目を引く。



もちろん、

なぜそれが 必要とされているのかはわからないが、

採用上なんらかの参考にしているのではとい う疑念はわく。



また、以前、電機メーカーがAB型の社員だけを集めて新製品開発プロ ジェクトチームを作ったという実例がある。



特に成果は出なかったようだが。 要する に、

血液型が就職や配属面で考慮されていると思われる事例があるのだ。

これは無 論、

差別である。





ところで、

血液型に関して「心理学の調査では性格との 関連が見つからなくても、

実は微かな関係がある可能性は否定できないのではない か」という質問をされることがある。



それはもちろんその通りで、

よくよく研究して みると弱い関係があるということになるかもしれない。



研究する価値もあるだろう。



しかし、

一般に言われる血液型性格判断はそのような微妙な関係ではなく、

「あなた はA型でしょう」とコンパの席で指摘できるほどにはっきりした関係を主張している ことに注意するべきである。



したがって、

上の質問は血液型性格判断とはなんの関係 もない。





3.フリーエネルギー



フリーエネルギー装置とは無から エネルギーを生み出す装置、

すなわち第1種永久機関(エネルギー保存則を破る機 関)である。



もちろん、

永久機関については昔から多くの提案があったのだが、

ここでは今現在も開発が続けられているNマシンやエーテル・エンジンといった装置を問 題にする。



ちなみに、

日本では第1種・第2種を問わず、

永久機関に対して特許はお りない。



自然法則、

具体的には熱力学法則に反するからである。





しかし、

フリーエネルギー開発者はエネルギー保存則を承知の上で、

それを回避できる論理を 構築しようとしている。



つまり、

ここでもフリーエネルギーは反科学でもオカルトで もなく、

あくまでも「科学」らしい体裁をもったものとして提案されているのである (ただし、

「ニューサイエンス」との接点もあり、

「科学らしさ」の意味も微妙では あるが)。



ここではふたつの論法を紹介しよう。



(1)「エネルギー保存則は証明され ていないので、

反してもよい」この言説の前半はある意味で正しい。



たしかにエネル ギー保存則は「数学的」に証明されたものではない。



しかし、

物理法則とはそもそもそういうものである。



エネルギー保存則は経験の集積であって、

膨大な傍証に裏付け られている。



仮にこの法則が破れるなら、

その影響は科学のあらゆる分野におよぶ。



(2)「未知のエネルギー源があるのであって、

それも含めてエネルギー保存則は成立 している」これは巧妙な論理で、

実際、

まじめな研究としても新しいエネルギ源ーが話題になることがある。



ただし、

それが「エネルギー」であるためには、

かなり厳し い条件を満足しなくてはならない。



その条件がクリアできることが示されれば、

物理 学者も新エネルギーを認めるはずである。



残念ながら、

フリーエネルギー装置がそれをクリアしたことはない。





問題はなぜフリー・エネルギーを研究するのか である。



どうやら、

フリー・エネルギー研究者の多くは、

装置ができればエネルギー 問題が解決すると思い込んでいる善意の研究者のようだ。



しかし、

「フリー・エネル ギーがあれば、どんどんエネルギーを使っても大丈夫」と考えるのは基本的に誤って いる。



エネルギー問題と環境問題は分かちがたく結びついており、

エネルギー消費が 増えればそれだけ環境負荷は増す。



もっとも、

この問題は他の原子力発電や核融合な どでも同じことだが。

そういう意味では、

エネルギーさえ作ればエネルギー問題は解 決するという考え方自体が

「ニセ科学」の要素を持っていることは頭にいれておくべ きである。





もちろんフリー・エネルギー研究者がいるというだけであれば、

笑って済ませてもかまわない。



ところが、

これを政権与党である公明党の国会議 員団が視察に行った(公明党の広報資料に出ている)とか、

市民派を謳う雑誌である 『週刊金曜日』の連載小説で肯定的に取り上げられているなどという事例を前にする と、

必ずしも笑って済ませているわけにはいかないのかもしれないという気がしてく る。





4.マイナスイオンの教訓



マイナスイオンはニセ科学である にもかかわらず、

どういうわけか大手家電メーカーがこぞって参入して一大ブームと なった。



現在は終息に向かいつつあるようだが、

ニセ科学に参入した家電メーカーは”大手”なりの責任をきちんととる気があるのだろうか。





なぜニセ科学 なのかからはじめよう。



マイナスイオン発生装置と呼ばれるものは大きく三種類にわ けられる。



(1)水を細かく粉砕して噴霧するもの

(2)放電によるもの

(3)トルマリンを 用いたもの。



方法が違えば生成されるものも違う。



実際、

「マイナスイオン」と称さ れるものは(1)では帯電した細かな水滴(2)では空気中の何かが帯電したもの(3)は何 も出ない、

ということになる。



これらをまとめて「マイナスイオン」と称してもしょうがないことは明らかだし、

もちろん、

それらすべてが身体にいいなどということは ありえない。



実際、

(2)の方式では身体に悪いオゾンも発生するはずである。



おそらく元々のアイデアは(1)であり、

これには少なくとも加湿効果くらいはあるだろう。





マイナスイオンが身体にいいとされる根拠は『医学領域 空気イオンの理 論と実際』(木村・谷口)という文献に求められる。



ところが、

これがなんと第二次 大戦前の本、

もちろん現在では省みられることのない学説である。



多くの通販カタロ グなどでこの文献が引用されているが、

発表年を表示していないところを見ると、

後ろめたいところがあるのに違いない。





さて、

マイナスイオンブームは堀口 昇・山野井昇・菅原明子という三人の”権威者”によって牽引されてきた。



この三人 が揃いも揃って普通の意味での研究者ではなかったこともこのブームの面白いところである。



たとえば、

テレビなどで東京大学医学研究科所属・工学博士と紹介される一 人は、

たしかに東大所属だが東大の研究者総覧には記載されていない。



テレビ局は本 当の身分を知った上でやっているはずなので、

マスコミも共犯という事例である。





結局、

マイナスイオンはニセ科学の中でも悪質な部類に属する確信犯的なものだったわけである。



まきこまれた大手家電メーカー

(特に掃除機の吸い込み口に トルマリンを練りこんだ某メーカーなど)の開発者には同情を禁じえない。





しかし、

ここでは”なぜ一般に受け入れられたか”に注目したい。



もちろ ん、

マスコミが大きくとりあげたことは大きいが、

それだけではなさそうだ。



ひとつ にはイオンという言葉から受ける「科学っぽい」印象である。



おそらく、

マイナスイ オン商品を買った人のほとんどは、

身体にいいことが”科学的に証明されているから”買ったのだろう。



オカルトも超能力も信じない人でもマイナスイオンには引っか かるということである。





もうひとつは、

マイナスはよくてプラスは悪いと いう「二分法」の圧倒的なわかりやすさである。



血液型と違い、

二分法が有効にはた らいた例と言えそうである。



追記(2006/2/23): マイナスイオンの歴史については未だによくわからないのだが、

欧米(米のみ?)ではかつてコロナ放電式のイオン発生器が流行ったらしい。



コロナ放電で発生するのは大気イオン(空気イオン)で、コロナ放電に限れば、

日本でいうマイナスイオンは negative air ion に相当する。negative air ionが動物の行動に影響するという論文は、

それなりの数見つけることができるのだが、

マイナスイオン商品を正当化できるほどのものは見あたらない。



しかし、

上に書いた「現代では省みられることのない」は言い過ぎで、

ときどき省みられてはいるようだ。



文献リストに挙げてある『ハインズ博士「超科学」をきる』に取り上げられているイオン製造器もコロナ放電と思われる。



ハインズ博士の見解をまとめると、

空気イオンはたしかに人間の行動に影響するようだが、

その効果は微妙で、

イオン製造器を買うだけの価値はないということ。



この状況はマイナスイオンブームを経た今でもたいして変わらないと思われる。



堀口昇が書いた「マイナスイオンの医療応用」という解説文献があるのだが、

引用文献中で生理作用に関する英語文献はひとつだけしかないようだ。



なお、

天羽さんの「水商売ウォッチング」に文献がいろいろ掲載されている。



では、これは「ニセ科学」ではなく「未科学」なのかということになるのだが、

残念ながらそうはいかない。



効果がはっきりしないものをあたかも効果についての科学的な証明があるかのようにいうのはやはり「ニセ科学」である。



「よく調べれば、

マイナスイオンの効果が明らかになるのではないか」という反論を受けることがあるのだが、

それは本末転倒で、

「よく調べてマイナスイオンの効果が明らかになったから、

商品化する」でなくてはならないことは誰が考えても当然の話。



ところで、

水破砕式のルーツはやっぱりわからない。





5.波動



ニセ科学の世界に「波動」という言葉が現れて久しい。



「波動」と聞くといかにも物理学の専門用語のように思えるが、

実はここでいう「波動」は物理学的な概念ではない。



では、

「波動」とはな にか。



おそらくもっとも正確な答は”波動測定器で測られるもの”である。





波動測定器は、

一見非常に複雑で精巧な装置らしい外観を持っている。



こ れで何をどのように測るのか。



まず測定したい対象(健康器具のようなものや食品で あることが多い)を用意し、

測定したい項目を入力する。



項目は主として身体に関す るもので、

たとえば腎臓や肝臓などの臓器名やさまざまな病名、

あるいは”免疫”な どである。



すると波動測定器は「この食品の波動は腎臓について+21」などと結果を一個の数値として出力する。



数値の流儀はいろいろあるが、

代表的な装置では数値は -21から+21までの整数で、

-21が最低、

+21が最高というものである。



つまり、

上に挙 げた例では問題の食品は腎臓に対して最高の効果を持つと判定されたことになる。





波動測定器の仕組みはほぼ解明されていて、

どうやら測定者自身の電気抵抗を測っているらしい。



要するに、

嘘発見器である。



実際、

熟練した測定者でないと 正しい数値が出ないと言われており、

測定対象の性質を客観的に表わすものでないことは明らかである。





この「波動測定器」というアイデアの秀逸さは特筆に 値する。



たとえば、

普通の検査機関に食品の成分分析を依頼したとしよう。



結果は、

1g中に何が何mg、

何が何mgというデータが延々と並んだものになるだろう。



それでは わかりにくいので、

”結局、身体にいいのか悪いのか”と質問したとしても、

明らかに毒性の物質が含まれるのでもない限りは、

曖昧な答しか返ってこないだろう。



”身 体にいいか悪いか”はひと言で答えられるようなものではないからだ。





ところが、

波動測定器は違う。



+21なら最高、

-21なら最低なのである。



+10程度なら 「そこそこにいいのだな」と判断されるのだろう。



自前の検査機関を持たない中小企 業にとっては福音と言ってよい。



「波動測定器の数値が+21だったので、

この食品は **によいことが示されました」などと言えるからである。



実際、

波動測定器の測定 結果を添付した商品を数多く見かける。





どうやら、

数値があることによっ て、

見る者に科学的で客観的という印象を与えているようである。



波動という言葉の 「科学っぽさ」もさることながら、

数値で表わすというアイデアによって、

科学らし さがより強調され、

一般の人にも受け入れやすくなったのだろう。



もちろん、

科学者の目から見れば、

複雑な問題に対して単位のない数値を一個だけ出力する測定器など 奇怪な代物としか言えないのだが。





この「波動」ブームを牽引する江本勝 もまた科学者ではない。



実は波動には「サトルエネルギー学会」という専門学会が存 在する。



しかし、

これは波動が存在することを前提とした学会なので、

波動そのもの に対する批判能力はまったく期待できない。



ニセ科学学会というわけだ。





しかし、笑ってばかりもいられない。



江本の著書「水からの伝言」に端を発したある ブームが深刻な問題を引き起こしているからである。



「水からの伝言」は江本らが独 自の手法で作った水の結晶の写真を集めたもので、

本を開くと美しい結晶の写真が次 々と目にはいってくる。



ところが、

美しいだけならいいのだが、

ここには驚くべき話 が書かれている。



たとえば、

水に「ありがとう」という言葉を見せたのち(水をいれ たビンに文字を印刷した紙を貼って、

文字通り”見せる”)、

その水で結晶を作ると水はきれいな結晶を作り、

一方、

「死ね」などの言葉を見せた水はきれいな結晶を作らないというのである。



もちろん「平和」は美しい結晶を作り、

「戦争」は作らない など、

言葉と結晶のあいだには一定の(実にわかりやすい)関係がある。





この話などはもはや科学を装ってすらいないと思うし、

ちょっとでも常識があれば笑い飛ばす程度の話だったはずである。



その意味では、

これまでに述べてきた「ニセ科 学」よりもオカルトに近い。 ところが、

これが”実験結果”として本に掲載されているというだけで科学的事実と思い込む人たちもいるのである。



しかも、

仰天すること に、

これを小学校の道徳の教材として使っている先生たちが少なからずいる。



「言葉 は水の性質を変える。



人間の身体は多くの水分を含むのだから、

言葉は人間の身体にも影響する。



美しい言葉を使いましょう」というわけだ。



この授業がTO SS(教育技術法則化運動)と呼ばれる運動に参加する小学校の先生のあいだで広まっている。



事実、

私の友人の娘さんは授業参観の機会にこの授業を受けたらしい。





これは憂慮すべき事態である。



問題点は大きくふたつ挙げられる。



まず、

明白に非科学的であるものを「事実」であるかのように教えていること。



小学校も高学年ともなれば、

中には批判力のある子どももいるはずで、

生徒が「そんなことはあ りえない」と発言したらどうするつもりなのだろうか。



また、

水の結晶と道徳の関連 性がまったく示されないまま、

アドホックに”きれいな結晶ができるのはよいこと” として教えてしまうというのは思考停止であろう。



特に”道徳”としては問題が大き い。





ニセ科学がこのような形で

「理科」ではなく「道徳」や「総合的学習 の時間」に侵入しつつあることは我々もよく認識しておくべきである。





6.ド ーマン法と「奇跡の詩人」



最後の実例として、

NHKテレビで放映されて 大論争になった「奇跡の詩人」問題をとりあげよう。



新生児期に脳障害となり、

事実 上ひとりでは動くこともコミュニケーションを取ることもできなかった日木流奈君 が、

ドーマン法というリハビリ法の訓練を受け、

母親に介助されながら文字盤を使って文章を組み立てるファシリテイテッド・コミュニケーションという技法を身に付けることにによって、

会話ができるようになっただけではなく、

本まで出版してしまっ たという話である。





ドーマン法はアメリカで始められたリハビリ法で、

特に先天的な知的障害者に対するリハビリで知られている。



ドーマン法の背景となる” 理論”をまとめると以下のようになる。



脳は発達し続けるものであり、

知的障害は発 達が停止あるいは遅滞することによって起きる。



これは、

加速させることが可能であ るしたがって、

知的障害のリハビリには、

適切な刺激を与え続けることによって、

脳 の発達を加速させればよい。





そのための具体的な手法としては、

”正常 な”動作を無理やり行なわせることによって正しい”パターン”を学習させる「パタ ーニング」、

自分の呼気を吸わせる「呼吸訓練」、

そして上述のFascilitated communicationがある。



特にパターニングでは何人もの大人が手足を持って、

子ども を無理やりに動作させるということが行なわれる。





理論があると書いたが、

むろんこの理論は学問的には全く認められていない。



それどころか、

アメリカではいくつかの学会が否定的声明を出している。



また、

当然のことだがFascilitated communicationでは介助者の意図が反映することが明らかになっている。



さらにパターニングのやりかたから推測できるように、

ドーマン法は親だけではできず、

何人も のボランティアを必要とする。



事実、

インターネットで検索すると、

ドーマン法のた めにボランティアを募集しているという記述をいくつも見つけることができる。





少なくとも知的障害のリハビリ法としては明らかにニセ科学である。



ドー マン法はいわば”藁をも掴む”親の気持ちにつけこんだもので、

実際、

この指導を受 けるにはかなりの金額が必要とされる。



しかし、

親の負担もさることながら、

これが意思疎通能力を欠く子どもに対する虐待以外のなにものでもないという点がより重要 である。





7.間違った科学とニセ科学



ニセ科学を敢えて分類する と、

大きく(1)最初からニセ科学だったもの(2)初めは科学だったがニセ科学に変質し たもの、の二つになるだろう。



これまでに見てきた最近の事例はほとんどが(1)に属 するものだった。



血液型の古川説あたりが辛うじて(2)だろう。



どうも日常生活に近 いところで見られるニセ科学には(1)が多そうである。



(2)も含めて議論するために、

ここでニセ科学と「間違った科学」の違いを考えてみよう。





科学の発展は仮説と実証の積み重ねであるから、

もちろん中には「間違った仮説」もあれば「正し くなかった実験」も膨大にあったし、

現在も膨大に生産されている。



しかし、

それら は決して「ニセ科学」ではない。



単に間違っただけである。





常温核融合は少々微妙だが、

それでも最初に発表した2グループのうち、ジ

ョーンズのグループのものは普通の意味での「科学」だった。



実際、

常温核融合騒動が終わったのちも、

ジ ョーンズは特に批判されていない。



常温核融合は一時多くの科学者の興味をひいたし、

実際に追試を試みた学者も多かった。



問題は、

そういった追試がことごとく失敗したあとの対応である。



常温核融合が否定されてからも、

「あるはずだ」という思い込みで研究を続行したひと握りの学者はやはりニセ科学にはまったと言うべきだろ う。



普通の科学がニセ科学に変質したのである。





ただし、

常温核融合関連 の研究を続けていれば即ニセ科学だというわけでもない。



科学であるかないかは結局は科学者側の態度や姿勢によるのであって、

同じテーマが科学にもニセ科学にもなりうるからである。





歴史的に有名な「間違った科学」の例としてはポリウォ ーターが挙げられる。



この時には、

関係した科学者たちが最終的にポリウォーター仮説が誤りであることに合意して終結した。



つまり、

常温核融合とは違い、

研究者たちは科学から足を踏み外すことなかった。



間違いでは合ったが、

科学として正しく終わったわけである。





当然、

科学とニセ科学のあいだには広大なグレイゾーン があり、

科学ともニセ科学ともつかないケースはいくつでも見つけることができる。



それはそれでしょうがない。



グレーゾーンがあるからといって科学とニセ科学は区別できないとなどと考えるのは短絡思考である。



世の中にはグレーゾーンから遠くはな れて、

誰がどう見てもニセ科学だというものがあふれている。



つまり、ニセ科学はニ セ科学である。





8.ニセ科学はなぜ受け入れられる



いくつかの実 例を議論した中で、

「ニセ科学」は”科学に見える”ということを強調した。



いや、

それどころか、

実は本物の科学よりも科学らしく見えてしまい、

だからこそ受け入れ られているのではないだろうか。



つまり、

ニセ科学の信奉者は決して科学が嫌いなわ けではなく、

本物の科学よりもニセ科学のほうを「より科学的」と感じているのでは ないだろうか。





その理由となるのが、

科学の実像とパブリックイメージと のギャップである。



推測だが、

科学に対しては「さまざまな問題に対して、

曖昧さなく白黒はっきりつけるもの」というイメージを抱いている人が多そうである。



もちろ ん、

現実にはそうではない。



科学は本来曖昧なものである。



科学者に質問したとしても、

いろいろな留保条件をつけたりいくつもの言い訳をした上で、

しかも往々にして 歯切れ悪く曖昧な結論しか出せない。



科学者の態度としてはこれが普通なのだが、

パ ブリックイメージからすればこれはあまり科学らしくない。





一方、

ニセ科学はどうか。



プラスは悪く、

マイナスはよいだとか、

A型は几帳面だとか、

+21は腎臓 に最高だとか、

とにかく小気味よくものごとに白黒をつけてくれる。



この思い切りの よさは、

決して本当の科学には期待できないものであるが、

しかしそれこそが科学に期待されるものなのに違いない。



「科学らしさ」に加えて、

ニセ科学が受け入れら れるもうひとつの理由として、

「願望充足」を挙げておく。



ニセ科学は、

信じたいと 願っていることを提示してくれる。



一部の人にとっては「信じたい」と「信じる」が ほぼイコールなのだろう。



それは一種のニューエイジ思想だが、

そこから市民運動とニセ科学の結びつきが生じる。



市民運動家には、

原発の悪い点、

大企業の悪い点、

大規模開発の悪い点、

そういうものを提示してくれる説は信じて、

そうでない説は信じ ないという傾向がどうしても見られるのだが、

イデオロギーに合う説だけを受け入れるなら冒頭にも書いたようにルイセンコ事件の縮小再生産版みたいなものである。





9.科学者の役割



ニセ科学は決して「科学離れ」や「反科学」の 結果として信じられているのではなく、

むしろ「科学的」だからこそ信じられているのではないかというのが、

本稿全体を通じての仮説だった。



ニセ科学のほうが科学よりも科学らしく見えるとしたら問題である。



いくつかの実例で述べたように、

ある種 のニセ科学は笑って済ませられない問題を抱えている。



それに対しては科学者からの 批判が重要である。



しかし、

ニセ科学を批判しても「業績」にならないという現状が あり、

発言する科学者はあまり多くない。



業績にならないとしても、

長い目で見るとニセ科学を放置することは自分の首を絞めることにつながるはずである。



科学者はも っと「ニセ科学」について勉強するべきだろう。  

   

 




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