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「いま」を10倍愉しむ思考法則 ( 200/7/19 )




「いま」を10倍愉しむ思考法則



川北 義則・著  PHP文庫











食べられることの幸せに感謝しよう







いま、



多くの日本人が忘れてしまったのが「食べられることの幸せ」である。







私のように敗戦直後の食糧難時代を体験した世代ですら、



喉元過ぎれば‥‥で忘れがちになっている。







ましていまの若い人たちはほとんどわからない。







だが、



人間にとって何が大切かといって「食べること」ほど大切なものはない。







このことはペットを飼ってみればすぐわかる。







ペットの世話で何が大事か。







エサを与えることとトイレである。







人間にとっては、



トイレもさることながら、



いちばん大切なのはエサである。







このことからも、



「食べること」の重要性がわかる。







いま、



世界では十億人以上の人が飢えている。







日本で飼われているペットよりも厳しい状況におかれている。







それを考えれば日本人は腹いっぱい食べられることだけでも十分感謝に値する。







ところが、



こういうことは身につまされないとなかなか実感できない。







実感できないから当たり前だと思って、



他の不満をいろいろと言い募る。







現在、



世の中が不況なので、



いろいろな不満が渦巻き、



現状を「第二の敗戦」などと言い出す人もいる。







たしかに経済戦争ではいま、



外国勢に攻められて防戦一方の状態にあるが、



すぐに日本が沈没してしまうように思うことは過剰反応である。







右肩上がりで、



それいけドンドンと発展してきたのが異常なのであって、



ほとんどの先進国が成長率はダウンしている。







日本もその仲間入りをしたと思えばいい。







そういうかたちで不満を並べるのでなく、



いま食べられる幸せ、



ゴルフにもたまには行ける幸せを味わうことが大切だろう。







与えられた条件で人生を愉しむ癖をつけておかないと、



リタイア後に苦労するような気がする。











こういう考え方を体制迎合型として批判する人もいる。







どんな批判をしようとその人の自由だが、



私がいっているのは社会的な意味ではない。







ヨーロッパの警世家に次の言葉がある。







「いまが幸せだと思えなかったら全世界を手に入れても不幸だ」。







人生とはこういうものだと思うのである。







食べられることに感謝する。







天気がよいことに感謝する。







緑があふれていることに感謝する。







気候が暖かいことに感謝する。







健康であることに感謝する。







病気でも生きていられることに感謝する。







こういう素朴な感謝の念を持ったうえで何かを主張するのが本筋で、



足りないものを数えあげ、



それが満たされるまでは何ものにも感謝しないという態度は、



自分を不幸の塊(かたまり)にするだけである。











幸福を手に入れる唯一絶対の方法







「本当にそうかな?」と、



一瞬、納得がいかないかもしれないが、



考え方によって人生はずいぶん違ってくる。







ゲーテにも影響を与えたといわれる17世紀の哲学者スピノザは、



「寒いとき体が温まるとうれしいが、



体が温まったから喜べるのではなく、



自分が喜ぶから体が温まるのだ」といった。







この考え方は屁理屈なのだろうか。







しかしこの考え方は決して目新しいものではなく、



ずいぶん昔からいわれてきたことなのだ。







ものは考えよう――とは、



よくいわれることだが、



このことを徹底的に腹の底に落とし込んでいる人はそう多くはない。







あるとき「そうだな」と思っても、



すぐに忘れてしまう。







だが、何か一つ自分の信条を持とうと思う人は、



この考え方を信条にするといいだろう。







つまりプラス思考を先取りするのだ。







何か物事を成し遂げるときも、



うまくいかないのではないかと、



不安に感じるときがある。そんなとき、



「うまくいくから、いま自分は愉しいのだ」と先取りする。







そうすれば本当にうまくいく。







こういう考え方を徹底して説いて『幸福論』なる書物を著したのがフランスの哲学者アランである。







アランはさらにこうもいう。







「何事かがうまくいったら誰もがうれしいと思うだろう。







だが、うまくいったからうれしいのではなく、



自分がうれしいからうまくいったのだ」







ピンとこない人がいるかもしれない。







話はやはり逆なのではないか――と。







だが、



物事がうまくいかないときのことを考えてみればいい。







うまくいかないことは、



ほとんど不快感の中で行なわれたことなのだ。







ここから一つ重要なことがわかる。







それは、



「人生はその人間が考えたとおりになっていく」ということである。







不幸な人が不幸が似合う顔をしているのは、



不幸だからでなく、



そういう顔をしているから、



人生がその方向へ行く。







幸せな人が幸せそうなのも、



幸せだからでなく、



幸せそうな顔をしていたからそうなったのだ。







むろん、



これは100%ではない。







幸福になるはずなのに、



思いがけないことから不幸になることもあるし、



その逆もある。だが、そういうことが起きる確率はごく少ない。







その少ない予想外の出来事に遭遇したときに、



どこまでプラスに考えられるか、



あるいはマイナスに考えてしまうかで人生の幸不幸は左右されるようだ。







プラス思考というのは、



どんなときも「よい方に考える」ことを勧めている。







●宇宙には「類は友を呼ぶ」という絶対法則があります。







また、



現代科学の最先端を行く量子力学では、



この世界はすべて波動でできているということがわかっています。







人間も波動であり、



その人間の心の動きまでもすべて波動であるというのです。







そして、



同じ周波数の波動は引き寄せ合い、



共鳴し合うといいますから、



暗い波動はそれと同種の暗い出来事を呼び寄せ、



明るい波動、



愉しい波動は愉しい出来事を引き寄せるということになります。







昔の人はそのことがよくわかっていたようで、



「笑う門には福来る」あるいは「泣き面に蜂」といった諺を残しています。







人は悲しいから泣くのではなく、



泣くから悲しくなるというわけです。







いつも笑っていると、



ますます笑いたくなるような出来事が周りに起こり始める、



怒っていると、



ますます怒らなくてはならないような事態が発生する――私自身、



これまでに何度も実感させられた法則です。











  どんな言葉を使っているか点検しよう







「あなたはあなたが一日中考えているとおりのものである」







潜在意識論で有名なアメリカのJ・マーフィーの言葉である。







試しに自分が一日にどんな言葉をひんぱんに使っているかを点検してみるといい。







「私はどうしてこう運が悪いのでしょう」







「私くらい不幸な人間はいない」







「そんなことしてもだめに決まっている」







「ああ、早くこのつらい状況から抜け出したい」







こういうマイナスの言葉の多い人は、必ずそういう運命にある。







そういう運命にあるから、



こういう言葉が口をついて出るのは当然と思われるかもしれないが、



実際はそうではなくて、



そういう言葉をいつも頭に思い浮かべ、



また使ってきたから、



そういう運命になったのである。







霊感商法で高額な壺を買わされるような人間は、



ほとんど例外なく「私は不幸な境遇にあります」という顔をしている。







売りつけるほうはそれがわかるらしく、



そういう人の所へしか行かない。







だから、



だまされる人は何度もだまされる。







だまされた人間のリストが高い値段で売買されているという。







一度だまされた人間は、よし今度こそ以前の損を取り返そうと欲を出す。







そしてまただまされるわけだ。







幸福も不幸も循環する。







何をやってもうまくいく人は、



たいした苦労もしないでスイスイと物事を進め、



ちゃんとうまくいく。







よく人はツキとか運とかいうが、



ツキがないのではなく、



あっても生かせない。







生かせないのは頭の中にある考え方、



口から出る言葉が関係しているのである。







何をやっても見事にだめな人の話を聞いたことがある。







有能でセンスもよく、



知識も情報も持っていて、



客観的に見ると失敗する要素はどこにもない。







そんな人物が不幸なことに数十年にわたって、



ほとんど物事がうまくいったためしがない。







表に現れる失敗の理由はいつも同じ。







人に去られるのだ。







だから彼は「自分は人に恵まれない」と思っている。







いい人物に巡り会えされすれば成功する――と。







だが、



いい人物は、



口をついて出る言葉がすべて否定的な人には寄ってこない。







一緒にがんばろうという気がなくなる。







残るのはレベルが低いか、



似たようなマイナス思考の持ち主ばかりだから、



何をやってもうまくいかない。







もっと救いがたいのは、



本人がそのことに少しも気づいていないことである。







●言葉は日本では古くから「言霊(ことだま)」といって、



「魂が宿る」といわれてきました。







聖書にも「始めに言葉ありき」と書かれています。







それほど大切な言葉を、



私たちはふだん無造作に使っていますが、



マイナスの波動を持つ言葉を口癖にしてしまうと、



やがてマイナスの状況を自分の周りに引き寄せてしまうということです。







悪い言葉を使わず、



よい言葉を使う癖をつけたいものです。







私もときどき他人や世の中の悪口を言っている自分に気づき、



はっとすることがあります。







言葉の命を尊重し、いつもきれいな言葉、



世の中を明るくする言葉を使うように心がけたいと思います。











「笑いたくなくても笑う」効用







「笑いたくなくても笑うのよ」といったのは、



いまはもう他界したマザー・テレサさんである。







生前、



彼女は貧しい人たちのために生涯を尽くした偉大な人だったが、



一緒に働いているシスターたちに、



いつもこういっていたという。







「笑ってあげなさい。







笑いたくなくても笑わなければだめよ。







人間には笑顔がとても必要なの」







日本人は笑いが苦手という意見がある。







アメリカやヨーロッパの人間は子供の頃からユーモアを学ぶ。







30分一緒にいて一度も笑わせなかったら「どういう人なんだろう」と疑問を持たれる。







それくらい西洋では笑いに敏感だ――と。







私はそうは思わない。







古来、



中国には「一笑一若、一怒一老」という名言がある。







「一回笑えば一つ若返り、



一回怒れば一つ歳をとる」という意味だ。







中国から多くを学んだ日本が笑いの意味を知らないはずがない。







笑うとなぜいいのか。







作り笑いを2時間続けたら、



ガン細胞をやっつける力を持つNK細胞が活性化したという実験結果が報告されている。







つまり、



ムリに笑うだけでも健康にプラスになるというわけだ。







この効果を利用して、



実際にガン患者に落語を聞かせることを試みたお医者さんもいるほどだ。







また最近では、



糖尿病の患者さんが笑うことで血糖値が大幅に低下したという研究もあるほどだ。







「たかが、笑い」などとバカにはできない。







ストレス学説で有名なハンス・セリエ博士は笑いの効用を祖母から教えられたそうだ。







博士が少年時代、



何かでわあわあ泣いていたときのこと。







祖母がその場を通りかかって、



こういった。







「ハンス、泣くのはおやめなさい。







泣けばよけい悲しくなります。







笑いたくなくても笑うのですよ」。







この言葉がハンス少年にはよほど印象的だったらしく、



この一言が後の博士のストレス学説を生むヒントになったのだという。







昔の人は経験的にだろうが、



笑いの効用をよく心得ていた。







最近、



笑い大会なるものが開かれている。







みんなの前で無理やり笑って、



どれだけ大きな声で愉しげに笑えるかを競うのだ。







これなどストレス解消に役立ちそうだ。







愉しいから、



おもしろいから笑う、



と考えるから笑えなくなる。







何でもいいからまず笑ってみることをお勧めする。







笑うと愉しくなる。







これは不思議なくらいそうなる。







同じ人生なら笑って愉しくするほうが幸せではないか。











●「笑う門には福来る」。







そして「泣き面に蜂」。







昔の人は素晴らしい法則をちゃんと理解していたのですね。







愉しいから笑うのではなく、



笑うから愉しくなるのです。







大いに笑いましょう。







そして、



ぼやいたり、



愚痴を言ったり、



嘆いたり、



‥‥そんなマイナスの言葉や表情とさよならいたしましょう。







世の中はいろいろあるから愉しいのです。







身の回りのいろんなもの、



いろんなことに感謝して、



毎日笑いの絶えない人生を送りたいものです。







少なくとも、



「こんなことがあるから、



笑えるわけないじゃないか!」などと、



自分が笑えない理由を証明しようというような気持ちにはなりたくないと思います。







まず笑うこと。







筆者はそう言っているのです。











いまをハッピーにする極意は不将不迎にあり







これは中国古典の『荘子』に出てくる文句である。







不将は「将(おく)らず」のことで「過ぎ去ったことをいつまでも考えない」、



不迎は「迎えず」で「先のことを思い煩わない」の意。







要するに「過去をくよくよ考えたり、



将来のことを思い煩ったりしないで生きる」ことを勧めているのである。







実際に私たちのやっていることは「不将不迎」の逆といってよいかもしれない。







50を過ぎても、



かつて自分につらくあたった小学校の先生のことを恨みに思っている人間を私は知っている。







こういう人間はほとんど過去の中で生きている。







だから「いま」の人生が少しもうまくいかないのである。







過ぎ去った過去をいくら悔やんだり恨んだりしてもどうなるものでもない。







そういうことに頭を使うというのは、



いまを真剣に生きていない証拠だ。







そしてうまくいかない現状を「自分のせいではない」と言い訳するために過去を利用しているのだ。







世の中には学生時代にひどい先生にぶちあたっても立派に成長した人間はいくらでもいる。







小学生や中学生は先生を選べないから、



ひどい先生にあたったときは運が悪かったと思うしかないが、



それにしてもそんなことにいつまでも自分の人生を左右されて悔しいと思わないのだろうか。







自分の人生は自分で切り開くものである。







こういう人間を意気地なしというのだ。







そうかと思うと、



まだ40にもならないのに、



いまから本気で年金の心配をしている人間もいる。







いったいどういうつもりかと首を傾げたくなる。







たしかに、



年金事情の先行きは不透明だし、



あまり明るい見通しは得られていない。







だが、



年金の保障が得られたとしたら、



将来のことで思い煩うのをやめるかというと、



そういう人間は必ず新しい不安材料を見つけ出してきて、



同じ心理状態に陥るのである。







なにか不安材料を探さないと気がすまない損な性格なのだろう。







不平不満、



不安、



心配は幸せを妨げる大きな障害物である。







だが、



ハッピーになれる人間は、



それを解消するようにすぐ努力を始める。







頭で考えるのではなく、



すぐに実行に移す。







だから悩みがなくなる。







これが不将不迎ということだ。







いまがハッピーじゃない人は、



頭であれこれ考えてばかりいて行動に移さないのである。







一人の人間の身にふりかかることなど、



よくも悪くも似たようなものだ。







とくに日本のように豊かで安定した社会ではなおさらである。







にもかかわらず人生の幸福度はずいぶん違っている。







それは不将不迎を実行するか、



その逆を実行するかの差といえるだろう。







●取り越し苦労、



過ぎ越し苦労はしないほうがいい。







私もそう思います。







そしていまを精いっぱい生きること。







「いま」に感謝し、



「いま」を愉しむことが人生の秘訣だと思っています。







なぜなら、



私たちには「いま」という時間しかないのです。







漠然とした未来のために現在を犠牲にするという考え方をしていますと、



未来はいつまでたっても来ませんから、



犠牲にされた愉しくない「現在」がいつまでも続くことになります。







済んだことに思いを残さず、



未来のことを思い煩わず、



目の前の「いま」をしっかり愉しむことが幸せの秘訣だということですね。











「競争はしないほうがいい」のはなぜか







資本主義の原理は、



ルールを明らかにした競争の原理である。







正々堂々と競争をして、



勝ったほうがよりよい目を見る。







負けたほうは負けっぱなしではなく、



敗者復活の可能性を残す。







こういう原理で富の争奪戦が行なわれているのが資本主義社会だ。







この原理が依拠するところは自然界である。







自然界は「弱肉強食の原理」が支配している競争社会だという考えが、



ダーウィン以来支持されてきた。







ところが最近、



資本主義の原理に疑念が持たれ始めている。







「競争社会は人間を幸せにしない」という意見が出てきたのだ。







そうした考えを早くから唱えていた一人に船井幸雄さんがいる。







船井さんは、



「競争は善ではなく、



正しい環境のもとでは競争は起こらないのではないか」と、



資本主義の本質に疑問を投げかけている。







いまになってそういうことがいわれ始めたのには理由がある。







これまで科学的に正しいと思われていた自然界の摂理の解釈が、



どうも人間側の誤解にもとづくものだったらしいことが次々と明らかになりつつあるからだ。







たとえば心理学者A・コーンという人が書いた『競争社会をこえて』という本によれば、



何十万年も前の人類の祖先、



あるいは類人猿の遺跡には、



彼らが助け合って生きていたことを実証する形跡は残っていても、



競争したり奪い合ったりした跡は皆無なのだという。







しかし現代にごく近い時代の人間の遺跡には、



競争したり奪い合ったり殺し合ったりした痕跡が認められるそうだ。







もう一つ興味深いのは、



自然界の競争原理が誤りだったことだ。







動物の世界は弱肉強食ではなかった。







たしかにライオンはシマウマを殺して食べる。







だが、



それは強いものが弱いものをやっつけているのではない。







食糧に限りあるこの地球上では、



一定量減らさなければシマウマの種は存続できない。







その都合とライオンの都合がうまく合致したのがライオンとシマウマの関係なのである。







迷い込んで北極の氷に閉ざされたクジラを人間たちが総動員で助け出したニュースがあった。







だが、



現地に住む人たちによると、



過去そういうことがたびたびあったが、



そんなクジラが北極に住む動物たちのエサになるという自然の掟があるという。







クジラを助けるのが善行とは限らないのだ。







さらにもう一つ、



競争社会が間違っていたことを証明する材料がある。受胎のとき、



一つの卵子に何億もの精子が競争して、



最初にたどり着いた精子が子供を残す栄冠を得る、



というのは間違いだそうだ。







いちばんよい子を残せそうな精子を他の精子が協力して受胎させているという。







かくのごとく自然界は弱肉強食の競争社会ではなかったのである。











●私も「弱肉強食」は自然界のルールではないと思います。







この宇宙を運行している偉大な法則、



つまり創造神の本質が「愛」であるのなら、



「弱いものは滅びてしまえ」というルールはないはずです。







ただ、この宇宙は絶えず進化を続けているということですから、



その進化のプロセスのなかでは一定の競争的内容は必要のようにも思います。







ボクシングのように相手を倒す競争ではなく、



マラソンのようにお互いを高め合う競争です。







(ボクシングも試合の中では相手を倒しますが、



肉体の能力を強化するという意味では、



より強くなりたいという競争心が必要なわけで、決して悪いスポーツではありません)







このように、



スポーツは肉体の能力を競うゲームですが、



その本質は精神の強さを競っていると思います。







そして、



いい意味での競争は人の精神を強め、



高めてくれます。







相手を倒す、



相手に勝つのが目的ではなく、



優れた相手を目標にし、



自分を磨くためのバネにするならば、



競争も善ということになるのではないでしょうか。







生き物にそれぞれ特徴があるように、



人間にも個性や特徴がありますから、



いつも同じ物差しで比較する必要はないのです。







「世界に一つだけの花」という歌にあるように、



ボクシングは弱くても、



マラソンは得意。







あるいは、



スポーツは苦手でも絵を描くのはうまい、



唄がうまく歌える、



などの個性が人それぞれに備わっています。







それを一つの物差しで教育し、



順位をつけるという戦後の教育は、



自然界のルールを無視したために、



潤いのない殺伐とした社会を生み出してしまったと言えます。







試験勉強のために立派な個性を育てることができない日本の子供たちは本当に不幸です。







また、



そうやって、



有名な大学や一流企業、



国家公務員などを目指して青春時代を犠牲にしてきた多くの大人たちも、



いま不幸な人生を味わっているのではないでしょうか。







人を押しのけて自分がより有利な立場に立つという社会は、



いま崩壊しつつあると言えます。







あなたももう気づいているはずです。











本当に必要なのはほんのわずかなこと







ゴルフの神様といわれるベン・ホーガンの伝記がある。







そこには貧しい鍛冶屋の子に生まれ、



父親の自殺を目撃するという異様な体験を経て、



全米オープン4勝、



マスターズ2勝など輝かしい戦績をあげたホーガンの人生が書かれてある。







ホーガンの人生は苦難と栄光の繰り返しで、



まさに波瀾万丈だが、



そこにはゴルフに限らない人生への知恵がちりばめられている。







とくにすごいと思うのは、



一度頂点を極めた後に、



大きな交通事故でほとんど再起不能に近い重傷を負ったにもかかわらず、



そこから不死鳥のように蘇ったことだ。







しかも生涯の記録の主なものは事故後のものなのである。







そのホーガンがゴルフに関して、



自分が得た結論として次のようなことをいっているのが興味深い。







「いいゴルフをするのに本当に必要なことは、



ほんのわずかな正しい基本動作をきちんと行なうことである。







それ以上のものはいらない」







人生も同じなのではないかと思う。







人間が生きていくために必要なものは、



ほんのわずかでいいのである。







人間は欲があるから「あれもほしい」「これもほしい」と考える。







それが行動の原動力になることもあるから一概に否定するつもりはないが、



もう少しそうした側面にも目を向けていいように思う。







マレーシアに進出した自社工場の面倒を見るため1年半ほど現地で暮らしたビジネスマンが帰国した。







早速、



歓迎のゴルフ会が開かれた。







その日は平日だった。







みんなとゴルフをしながら彼が思いだしたのは現地でのことだった。







マレーシアのゴルフ場で平日ゴルフをしていたのは日本人だけだった。







日本ではそれが当たり前のようになっている。







それでいて同僚や先輩たちがふたこと目には「不況だ、不況だ」と嘆いている。







平日にゴルフができる身分の有り難さを少しも理解していない。







なんと日本人は贅沢に慣れてしまったのだろうと思ったというのだ。







昔から「起きて半畳、



寝て一畳」という。







人間は畳1枚分の空間があれば生きていくのに困らないということだ。







清貧の思想というのを私は好まないが、



自分が恵まれた境遇にありながら、



それを正しく認識できないのも困る。







老後の生活設計で悩んでいる人がいる。







「あと何年生きるといくらかかる」といった計算をして「足りない」といって心配しているのだ。







保険会社などもかなり高額な老後必要資金をはじき出している。







だが、



それはいままでの、



モノに囲まれた生活を前提にしたもので、



シンプルライフを心がけるつもりなら何の不足もないのではないか。











●ベン・ホーガンの話と著者の言いたい内容は少し飛びすぎているように思います。







しかし、



いまの日本人が非常に贅沢になり、



モノの大切さなどに鈍感になっていることについては同感です。






食糧やエネルギーの自給率の低さを考えますと、



もし何か大変な出来事があって、



お金があってもモノが手に入らない状況を迎えたとき、



はたしていまの日本人は慎みをもって生きていけるだろうかと疑問に思います。







有り余るモノに囲まれ、



感謝の気持ちを失い、



モノの命を大切にしなくなった日本人は、



食糧をはじめモノに不自由する事態を迎えたとき、



どのような行動をとるのでしょうか。







預言の時代を予感させるいま、



そのような事態は避けられないような気がしています。







オイルショックや米不足騒動のときにみられた見苦しい日本人の姿を、



再び見ることになるのでしょうか‥‥。

   

 




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