「心の風」(碧天舎)沙羅無有 の一説より
これまでの経験や知識をもってしても対応できない非日常的な現実に立ったりしたとき、
一瞬水晶のように澄んだ透明感のある意識状態を経験することがあります。
これは、
思考が存在せず、
精神の働きも全く通用しない‘心そのもの’になることで起きる現象です。
一瞬時間が止まったような感覚を持ったり、
自分のいる空間がすべてと繋がっていることをはっきりと感じたり、
また、
ふつふつと内部で湧き上がる純粋なエナジー(本来の自分(生命)が忘れていたもの)に触れ、
広く大きな無限の愛に包まれているような感じを受けたりします。
これを無の境地、
悟りの瞬間と言う人もいます。
この感覚は、
瞑想や特別な修業といった日常から離れた時間を持たなければ得られないものではなく、
辛い生活や衝撃的な時を経験する必要もなく、
すべての人がいつも何処かで経験していることです。
ただ人によって、
その感覚の記憶や、
それに対する認識の違いがあるだけで、
多くの人が気づいていなかったり、
忘れていたりします。
そして「この至高の愛の瞬間とも言える神秘(?)体験は特別な人にだけある。」という既存の情報を利用して、
権威と財を得ようとする団体やグループの作為によって、
霊能者・導師・超能力者という(?な)存在が、
いつのまにか私たちの思考の中に刷り込まれてしまっている現実の今があります。
神に選ばれた人、
神の言葉を話す人と、
悟りを開いたとされるある個人を神聖化し崇め、
彼を中心に盲信集団化した組織やグループは、
多くの人の思考を操作・誘導し、
私たち一人一人が本来持ち合わせている‘自由創造’という基本能力の中に組み込まれた神聖な体験、
至高の瞬間を否定して、
嘘の上塗り運営を成り立たせています。
(私たちは選ばれるのではなく、
選ぶのに…)
悟りには、
ありのままを受け入れるという精神の姿勢を持つことで近づくことができます。
(ありのままの自分でもあるわけだから、
悟りに近づくというのは正確ではないけど…。)
目の前の現実、
置かれた立場・環境に対し、
抵抗も否定もせず、
ただ受け入れ、
そのままでいて…。
それらが自己の成長のために自らが選んだ機会であり、
表現手段であると理解し、
他と自分を分離させるものは何も無いという、
すべてとの合一感みたいな気づきを覚えるとき、
これが一種の悟りです。
(悟りのエリアから見ると、
‘一種’という表現になる。)
悟りの中にいる人は、
それが自然でいつもと変わりなく当たり前のことなので、
特別に意識することもなく気づかないものです。
当然‘悟る’ことに興味などありません。
すでにその中にいるのですから…。
敢えて以前と比べるとすれば、
穏やかで平和な気持ちが常にあり、
ものごとへのこだわりやとらわれが極端に少なく、
時に全く無い状態を経験します。
自分の心を正直に表現し、
かけがえの無い身体としての自分を生きるので、
現実に対する容認と自己責任が当然となります。
反省や後悔をする必要を感じなくなります。
経験から自由でいて、
常に変化する瞬間の中で、
同じところにいる時間が極端に少ない「生命=変化」を実践するのです。
悟りは、
思考を超えた経験の外側での安らぎの境地。
そこは物事や人間という対象が一切設定されず、
‘悟る’という概念さえも存在しない「純粋な生命エナジーの世界」。
だから、
悟りを開こうとしたり、
神と一体化しようと物理世界との接点である思考に力をいれて努力すればするほど、そこから遠のいてしまう。
(悟れない人が悟ろうとする。)
ただその過程で、
形としての修業や自虐的・犠牲的思考を好むという
偏った経験と知識をベースにした強い思い込みによって生まれた幻像(=幻覚+空想の産物)を見、
勘違い悟り人間になるだけ。
自分のことを‘悟りを開いた’なんて言う人がいたら、
芝居人かペテン師ってわけ。
自分の心の性質を知り、
自分ならではの最高の現実を次々に創造している大いなる自己に気づけば、
みんなが悟りの中にいる人。
至福体験、
神聖な瞬間は、
特別なものでもなく、
ただ気づくだけでいい。
(心の性質を知ったら、
否定感情を抱けなくなる。
そして生命の歓喜が訪れる。)
結果ではなく原因、
到達ではなくプロセス。
誰もが覚者でなければ、
生命でなくなる。
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